2014年1月27日月曜日

二度とない人生だから

二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛をそそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳をかたむけてゆこう

二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないようにこころしてゆこう
どんなにかよろこぶことだろう

二度とない人生だから
一ぺんでも多く便りをしよう
返事はかならず
書くことにしよう

二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう


つけくわえる言葉が見つかりません。
ただ、一日のはじまりに唱え続けたい詩です。

あなたは二度とない人生を悔いなく生きていますか。

念ずれば花ひらく

2014年1月20日月曜日

心はつねに高貴であれ

貧しくとも
心はつねに
高貴であれ
一輪の花にも
季節の心を知り
一片の雲にも
無辺の詩を抱き
一椀の米にも
労苦の恩を思い
一塊の土にも
大地の愛を感じよう

いじけるな
あるがままに
おのれの道を
素直に
一筋に
歩け

〜六魚庵天国〜


この詩に出会ったのは、大学1、2年生の頃だったと思います。

わたしの母、父、同居していた父方の祖父母の家族四人は
わたしが12〜15歳の間に次々と病死をしていきました。

それからしばらくは・・・
それはちょうど高校に通っているときでしょうか、
とにかく、3歳上の姉と一緒に生きていくのが精一杯だったように思います。

正確には、その日その日を「やり過ごす」といった方がいいかもしれません。

そして、高校を卒業し、大学進学のため新聞奨学生をしながら、一人暮らしを
始めました。そこで、ようやく短期間のうちに家族に起こったことを振り返る
時間が多少できたのですね。

また、お酒を飲める年齢になり、今だったら晩酌好きだった父親の相手が
できるのに、いろいろな話ができるようになったのに、という思いが
こみ上げてきたのだ、と記憶しています。

大学の友人やアルバイト先に、そんな気持ちを共有できる人はおらず、外見上、
そんな素振りは見せないよう努めていました。
しかし、家に帰ると、気持ちが極度に落ち込み、外に出る必要のない時には
部屋にずっと閉じこもっていまいた。時々姉から電話があると

「あなた鬱じゃないの、どうにもならないことを考えすぎないように!」

と言われたこともありました。

実際、そう言われても、鬱という言葉の意味を当時よくわかりませんでした。
それが逆によかったのだと思います。

そういう時期に出会ったのが上の詩でした。

こころが癒されました。
何度も何度も紙に書きました。

「いじけるな・・・」で始まる最後のところは、愚痴や弱音を
吐きそうになった時、今でも口ずさんでいます。

心はつねに高貴であれ

きっとこの詩はあなたにも勇気を与えてくれると思います。

あなたは、素直に、一筋に、あなた自身を歩いていますか?

念ずれば花ひらく

2014年1月13日月曜日

ありがたさ

夜が明けるということは
なんとありがたいことだろう
光が射してくるということは
なんとうれしいことだろう


わたしは今から約20年前、1994年から約2年間、青年海外協力隊として
南部アフリカのザンビア共和国に数学の教師として派遣されていました。

赴任先は首都ルサカから西へ約400キロのところにある小さな村の中高等学校。

電気や水道はきてはいましたが、不安定で供給は一日3時間ほど。
水は突然止まったと思ったら10日間ほどは断水が続くという状況で
寮制だった学校は生徒総出で水汲みのために休校になってしまうような
ところでした。

だから、蛇口をひねって水がボコボコッと音を立てて出てくるだけで、
最高のしあわせ。

「シーーーン」と音が聞こえてきそうな静まり返った夜に、
停電が止み、電気がきてラジオやラジカセで音楽が聞けるときの至福感。
もう踊らずにはいられませんでした。

青空マーケットに普段はじゃがいもしかないときに、時々、にんじんや
ピーマンが並んだとき、興奮して高ぶる気持ち。思わずガッツポーズです。

そして、墨を空一面にこぼしたような深黒の夜空で、家のライト変わりに
眺めていた月明かり。

そういう、小さな当たり前のことがとても幸せでした。

考えてみると、私たちの身の回りの自然の営みは全てのことは奇跡
のようなものです。更に、文明によって便利になった電気や水
全てのことは本当に有り難いことだと思います。

小さなことに幸せだな、と感じる心、すなわち、いい意味で、
幸せ感のハードルを低くする、というのは心豊かに生きていく
大切な方法の一つのような気がします。

あなたの「有り難い感」を大切に意識していますか?

念ずれば花ひらく。

2014年1月6日月曜日

しばられない

国家にもしばられない
金力にもしばられない
権力にもしばられない
愛にもしばられない
憎にもしばられない
地位名誉にもしばられない
そういう人間でありたいものだ。


人間にとって「本当の自由」とは何でしょうか。
どういう状態のことなのでしょうか。

私たちは、

自分らしく生きたい
他人にしばられないで生きたい
学校や会社、組織ににしばられないで生きたい

と心に思ったり、口にすることがあります。

でも、それは本当に自分らしさや自由を求めて口にしているのでしょうか。

もしかしたら、それは、自分にとって都合のいいところだけ、心地いいところだけはとっておいて、または見て見ぬ振りをしていないでしょうか。

今置かれている場所、辛いところ、嫌だと思うところから、ただ逃げたいだけで言っているのかもしれません。

しかし、真民さんの「しばられない」は、私たち人間の捨てきれない欲、業、弱さから自由になりたいと詩っています。

どこか宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に通ずる心の清さと厳しさを感じます。

わたしたちも、「そういう人間になりたい」と願って日々、生きていくよう努めたいと思います。

あなたにとって、しばられない、本当の自由とはどういう状態ですか?

念ずれば花ひらく。